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8月, 2021の投稿を表示しています

宇江佐真理 著 憂き世店 松前藩士物語

 惜しいことに、既に作者である宇江佐真理先生はお亡くなりになってしまわれています。 この先生の作中には松前を舞台にしたものや、松前の風景や事柄がどこかに描かれる事がチョイチョイある。そりゃそうです。北海道に生まれ育ち、北海道の自宅リビングで書き綴ったものが我々の目に触れる書籍として出版されているらしいですからねぇ。 松前藩が梁川に移封となり、江戸で浪人暮らししながら子供ができ泣き笑いしつつ15年後に帰封されるまでの生活、そして人々の心を描いた逸品です。  現代社会では、転勤と言う言葉で国内のみならず世界各国を飛び回る優秀な方が沢山いらっしゃいます。 まぁ、私もその転勤という言葉によって、九州の片田舎から東京に単身赴任で出てくることになり、子供がこちらの大学を希望したことを機に、一家で移住することになったのですから。優秀かどうかは疑わしいところですが、境遇は同じようなもんです。 そんな転勤などにより各地に移り住んだ方のうち、幾人かは職を退いた後、望郷の念に駆られるのか生まれ育った故郷に帰って過ごされる、または過ごしたいと仰られたり実現されたりと… そうですよねぇ、懐かしいと言う気持ちは分からないでもないです。 しかし、経済的には比較的恵まれていたとはいえ、産まれは東京、その後も親の都合や職場の都合、そして自分の都合であちこち移り住んで生てきた自分からすると、望郷ってナニ?って頭を捻ってしまう事が少々どころじゃないような… 懐かしいと思える気持ちは羨ましいとは思いますけどねぇ。 時には田舎に帰りたいという気持ちは沸きますが、それは単なる一時的な帰郷(里帰り)であって、またそこに戻って住もうとは思わないんですよねぇ。 薄情と言われればそうかも知れないけれど、何処に行っても住めば都、そこに暮らす間はその地に根ざして生きていくのも人の生きる道の一つではないかと。 子供の頃から一つのところに暮らし、成人するまで大きな引越しをしたことがない方々には分からないでしょうねえ。 それにネットや宅配が発達したとはいえ、やはり田舎は住みづらいです。 特に文化的な面で、様々なホンモノを間近に「見たり触れたりする機会が多い」、そしてそんな場所へ電車に乗ってすぐに行くことができる場所って、やはり都会やその周辺なんですよね。 私は本が好きでよく買って読んでいますが、これもネットで買えば済むことだと

キャンセルカルチャーと文化の幼稚化が進んでいる?

 最近、本当にテレビというものを見なくなってきている。 ああ、かなりの愚痴なので読まない方が良いかも(笑) まあ、朝食の際にニュースチェックと天気予報、夕食時に家族で観る程度で、それもそう長い時間では無いのだけれど。 それでもたまたまつけた番組に、気になる出演者が出ているような場合は、少しだけ観ます。 そんな中先日、朝の情報番組(と言って良いのか分からないレベルだが)で、司会の方が色々コメンテーターとして出演されている方々に色々尋ねていたが、キャンセルカルチャーが怖いからなのか、それともそもそもバックボーンがないのか、尋ねられたことに怖々コメントを返していると思われる場面に出会した。 最近は、お笑い系の方も高学歴の方が多く、そうでなくても普段からかなり勉強しているのだろうな、というイメージを回答から持っていたのですが、どうもそうでは無い何かを怖がりながら言葉を選んでコメントしていることが多いように思います。 スマートフォンと各種SNSの流行とともに、ネットの世界がオタクと言われた人種(まぁ、私もその中の一人なのでしょうが)から一般人に広まり、裾野は広がりはしたけれど、それと同時にいろんなモノ・コトのレベルが低くなったのは誰が見ても明らかだと思います。 Googleに代表されるように、誰かが苦労してデータとしてWeb上に展開した様々な情報は、検索することで我々低レベル層の人間が恩恵を受けるのですが、裾野が広まった後のUserはその検索すらせず、SNS上で「教えろください」とつぶやけば、誰かの好意で回答が返されてくると言う、何ら苦労をしないで情報を手に入れる。一部の方はハッシュタグ検索というものを使いはするが、それも一部の使い方・便利さを知っている方だからこそであり、彼らも自身で探すという行為を行なっている。 しかし、それ以外の大多数は「雛が口を開けて待っているだけ」に近いと思います。 彼らは何ら考えることなく生き、自分が理解できないことは批判だけして生きているのでは無いか、そんなふうに感じるようになってきています。 そう、反社会的勢力の方々ように気に入らないことは暴力で排除し、自分が好むものだけで生きている、そして便利なものは自分で使わず誰かに命じて結果だけを待つのによく似ている。 そんなことでは成長はしないし、何も新しいものは生まれません。 反社会的勢力に代表される

子供たちのプログラミング教育を意味するもの

 COVID-19の影響なのか、彼の国の大臣がテクノロジーに強く、我が国はその足元にも及ばず、だからそのためにはプログラミング教育は必要だ、そう言う意見はあるかと思います。 これはある意味当たっている部分もあるでしょうし、そうでない意味も含まれていると言うことに、多くの方は気がついていないのではと私は考えています。 私自身、今の職場でこのような仕事に携わる前までは、普通のちょっとパソコンが好きで自分で何かを調べる程度の人間でしたから、そう言う教育を受けることができれば何らかの役に立つのではないかと思っていますし、実際に運良くそちらの教育を受ける機会に恵まれ、今に至っているため、その必要性は何も知らない方に比べれば、少しだけ多く「理解できる」機会に恵まれたのではないかと思います。 しかし、プログラミングを習ったからと言って、全ての子供たちがプログラマーやテクノロジーに関係するような仕事に携わることにはならないでしょうし、世の中はテクノロジーだけで成り立っているわけではありません。 1次・2次産業に携わる方がいらっしゃるので、我々は食料に困ることがないのですし、それらを運搬する方、調理する方、販売する方などいらっしゃるので、お店に行った際にお金を支払うことで口に入れることができる。 そのさまざまな過程の中で、物事を整理して上手く回していく必要があります。これらのことを考える際にも、プログラミング教育は役立つのではないかと私は思っています。 え?、どこにそんなことが役立つのか?そう思われる方は大勢いらっしゃるのではないかと思いますが、実はそう疑問を抱いた方にこそ、こう言った教育が必要なのではないかと思います。 コンピュータプログラムは、各プログラム言語で記載された通りのことを「素早く・正確に・自動的に」行うことが目的のものが多いのです。RPAと言われるものの主な目的もそうです 中にはそうではないものもありますが、今回その部分は忘れてください。 現在、自分たちが手作業で行っていることを自動化する場合、物事を整理・分解し、「分岐作業」や「繰り返し作業」に置き換えることが必要です。 そこで物事を整理して切り分け、問題点を洗い出す力が必要になってきます。 こう言ったことは、社会生活を営む中で、仕事を行っていく中でも必ずと言って良いほど必要になってきます。 しかし、多くの現代人はこ